講演会の記録
講演会の記録
 結成記念講演にたたれた加藤周一さん(医師・評論家 「九条の会」呼びかけ人)は、ご高齢の身でありながら、魂を揺さぶるようなお話をたっぷりと聞かせてくださり、大きな感動を呼びました。その要旨をまとめましたので、どうぞご覧下さい。
 憲法9条は、国内に向けては何を目標に作用しているか。1つは人権の尊重、2つ目は民主主義です。日本の将来という話になれば教育が非常に重要になってきます。9条と憲法の人権尊重主義、民主主義は相互に絡みあい、どれか1つを壊せば全体が揺らぎます。
 人権という言葉は、大日本帝国憲法には使われていません。比較的新しい言葉で外国語からの翻訳です。英語でもフランス語でも、人権を強調した国の文書に出てくる人権という言葉は複数形です。人権にはたくさんの権利があるわけで、どういう人権のリストを作るかについて、国際的にも意見の違いがあります。何を人権とするかは国によって、文化によって違うという考え方もあります。今日はそれらに詳しく立ち入るよりも、主として次の3点を中心にお話ししたい。
 人権の中である意味で最も大事なのは生存権です。生きていること。精神が生きているとかということではなく、物質的に、生きた人間。その反対は死です。人間には生存する権利がある。これが第1点です。
 第2点は、生存していても生活が苦しくて病気の時に適当な治療が受けられない、あるいは十分な食事がとれなくて飢えている状態では十分ではない。栄養を十分に保ちうる食べ物があること、病気に対して適当な治療が施されることを含めて、社会が構成員に対して保障する、権利としての福祉の問題です。
 3番目には、精神的な問題とも関連しますが、自由ですね。この3つを中心に人権の問題を考えたいと思います。

第1の生存。
 生存を脅かすものには色々な要素があります。大きく見れば自然的災害、大地震とか津波とか、もっと長い目で見れば地球の温暖化なども入るかもしれません。病気、ことに伝染病もあります。BSE、鳥インフルエンザなどの新しい病気は対処法が限られ、古い病気でも結核やマラリアなどで世界的には多くの人が死んでいます。
 もう1つは人為的障害です。地球温暖化も人工的な面がありますが、非常にたくさんの人の生存が人工的に脅かされるのは戦争ですね。中東では現在も大がかりな戦争が行われ、毎日、多くの人が死んでいます。
 人権のいちばん基本的な問題は生存していることですから、生存を脅かす要素を除くことが社会の義務だし、政府を中心に組織された社会であるなら政府の責任ということになる。大部分は国際的にコントロールしないと、1国だけで障害を除くことは困難です。
 もう1つの福祉ですが、福祉を脅かす現在の大きな要素は格差問題です。地球にはいろんな国があり、地域があります。豊かな地域では福祉が保障されていてそれほど大きな問題にならないが、貧しい地域では非常に大きな福祉破壊の作用が起きています。それは貧乏です。地域によって豊かな所と貧しい所があり、貧しい所は貧しさそのものが福祉を破壊する。根本的には格差を矯正しないと福祉を保障することは出来ないんです。では豊かな所では福祉が完全に保障されているかといえば、そうでもない。そうでもないけれどそれは程度問題です。
 ことに医療では非常に格差が大きい。社会政策として保険が必要ですが、公共の資金から援助して、国民の負担を軽減することが1つの対策です。もう1つのやり方は、公共の資金を投入しないで自由市場に任せるやり方です。これまでのところ、自由市場に任せるやり方だと格差問題は解決されない。米カリフォルニア州で医者をしている友人は、「米国の発達した医療技術は、お金のある人は利用できるが、お金のない人には利用できない。米国の目下の問題は貧しい人たちに十分な医療を施すことだ」と言っています。同じ構造は日本にもあります。

自由については注釈が必要です。
 1つは、個人の自由があるかないか、第2は自由が集団の中にあるかないか、中でもマスメディアに自由があるかないか、第3点は国家――ある国家は非常に大きな自由を享受し、国によっては自由の範囲が非常に限られているという問題です。
 まず個人の自由について言いますと、個人の自由が制限されていれば刑法上の責任は問われません。個人が責任を負うのは、個人が自由に行った行為についてのみです。1974年、米国の新聞王ハーストの孫娘が過激な政治的集団に誘拐され、メンバーと一緒に銀行強盗を働いて有罪とされました。しかし、異常な環境で洗脳され、同意を強制されたということで仮釈放になり、その後、犯罪歴も抹消されました。
 もし個人が自由でなければ、例えば「上官の命令は朕が命令と思え」ということになれば、朕が神様である場合には、責任は無いわけです。神様の命令なら反論する余地はないし、批判の余地はない。自由がないのだから、どういう行為であっても、誰も責任をとらなくていい。だから、自由があることは非常に大事な問題なのです。

2番目の、集団の自由の問題です。
 民主主義の建前は選挙で指導者を選ぶことです。指導者が共同体に対して何をしているかを知り、それを評価し、投票行動によって表す。小さな村の村長なら何をしているかはわかりやすいが、国となると到底分かりません。だからどうしてもマスメディアでそれを知ることになる。民主主義は、かなりの程度正確に政府が何をやっているか、政党が何をやっているかをメディアが伝える限りにおいて意味をなします。
 それには報道の自由が大きな条件になります。報道の自由がなければ本当のことは分からない。本当のことが分からなければ選挙に意味は生じない。選挙に意味が生じなければ、代議制民主主義は成り立たない。民主主義が成り立つか、成り立たないかといったときに、いちばん基本的な問題の1つは、メディアが批判の自由を持っていて、客観的な報道をすることが可能だということが条件です。だからメディアの自由は大事です。
 どういうときに新聞の自由が損なわれるかといえば必ずしも政府からの圧力とは限らない。ちょっと逆説的に聞こえるかもしれませんが、自由市場は最も大きな障害であり得る。常にそうであるとは限りませんが、しばしばそうです。ある大企業が公害を起こしたとして、それを報道することを企業は望まない。それでも報道するからには企業の抵抗を排除しなければならない。新聞社は企業ですから、儲けが投資を上回らなければ成り立ちません。新聞社の収入は、日本の場合、半分以上は広告収入です。ところが大きな広告を掲げるのは大企業だけ。大企業の意思に反することは新聞社の経営に致命的な影響を与えます。自由市場が報道の自由を殺すように作用するという意味はこういうことです。しかしそれを排除しないと民主主義は成り立ちません。

3番目。たんなる集団ではなく、国家全体にとって自由は非常に大事です。
 国家が自分で判断して自由に行動する――絶えず程度問題ですが、とにかく、かなりの程度の自由度をもっていることは非常に重要です。もし我々が選挙によって選んだ政府に自由度がなくて、他の国の命令に自動的に従って行動するということになると、選挙することは無意味です。
 自国の政府が外国の意思に従うということは、しばしばありました。冷戦時の東ヨーロッパがそうです。モスクワが意思を決定するのなら、プラハの政府を誰がやっていようと、どうでも良いことです。モスクワの政府を、チェコスロバキアの国民は選挙することはできないのですから、選挙は無意味なわけです。
 日本の場合でも、外国に盲目的にいつも従わなければならないとすれば、日本政府の選挙をする意味は非常に限られています。ですから国家の自由度は非常に大事な問題です。
 少し観点を変えると、制度をどのように変えてもそれを運用するのは人間だから、人間の考え方が変わらないと社会は変わらないという面は大いにあるわけです。その一つは人権問題でしょう。民主主義の大きな部分もそうだと思います。制度は大きな意味を持つけれども、同じ制度を持つ社会でも、そこで働いている人が違えば、出てくる結果が違うということです。
 政治的な制度が変わるときには、同時に教育制度が変わらないと十分に改革が実現しない。ですから、憲法9条を大きく転換し、戦争が出来るように変えたいと言っている人たちは、同時に教育基本法を変えたがっている。なぜなら、制度を変えただけでは、そんなに容易に社会は変わらないことを彼らはよく知っているからです。
 そこで現在よく出てくることの1つは愛国心です。学校教育で愛国心を吹き込んで愛国的な人間をたくさんつくりたいということでしょうが、しかし、だいたい愛っていうのは1人の他人を愛する場合でも、国を愛する場合でも、あるいは芸術とか自然を愛する場合でも、主として感情的反応です。同時に身体的な要素も強く、ただ頭で考えただけではないですね。「これは利益になるから愛することにしよう」といって愛したりはしない。旧約聖書のソロモンの雅歌に「愛のおのずから起こる時まで」という言葉がありますが、計画的に愛するというわけには行かない。文科省が監督して「これを愛しなさい」と言ったところで愛国心は起こらない。愛国に限らず、政府が「日本国民はうどんを愛せよ」と言っても愛は起こらない。
 19世紀の半ば頃、ユダヤ系のドイツ人でハインリッヒ・ハイネという詩人がいました。1830年の7月革命のあと31年にフランスに移住し、そこで自分の愛国心について「私にはかつて美しい祖国があった」という書き出しで詩を書いた。彼が祖国の何を愛したかというと、樫の大木と道端のスミレの花、もう一つはドイツ語の響きです。祖国は「イッヒ・リーベ・ディッヒ」(我は汝を愛す)と彼に話しかけた、その言葉の何と美しく響いたことだろう――これがハイネの愛国心の内容です。それはおのずから起こった。
 愛国心は、ある環境の下では平和のために、あるいは国際協調のために役立つのですが、ある時には戦争のためにも役立つ。
 人類の歴史で愛国心が軍事力と結びついた最初の例は、18世紀の終わりから19世紀初めにかけてのナポレオンです。長い中世とルネッサンスを通じて、兵隊は王様に対する忠誠のため、スイスの傭兵はお金のために戦ってきた。しかしナポレオンは兵士の戦いの動機に初めて愛国心を使いました。その力はご承知のように非常に強力でした。中世的、貴族的な軍隊よりも、愛国心で結束した軍隊ははるかに強力だった。
 フランス革命の時にも愛国心がありました。貴族が国際的でしたから、フランスの革命的人民は愛国心を持っていた。愛国心は革命の側にあって、弾圧する側にはなかった。だから愛国心は色んな方角に向かいうるんです。
 愛国心について話すのであれば、日本の伝統を考慮する必要があります。日本では明治以来、愛国心は絶えず軍事力と結びつけて宣伝されてきました。1920年代に軍縮の時代もありましたが、その時、愛国心は標語ではなかった。軍縮の標語ではなく軍備拡大の標語が愛国心でした。それは日本の伝統です。
 しかし愛国心一般についてはそうではありません。だから、日本での伝統を検討する必要があります。そうでないと、愛国心が十分理解されないと思います。
 そもそも愛国心は学校で強制すべきものではない。日の丸・君が代の押しつけも同じことです。日本では愛国心を持ち出すと火薬のにおいがする。
 民主主義は、人民主権主義のことです。国のために日本国民があるのではなくて、日本国民のために国があるべきです。非民主的な体制は、国のために臣民がある。臣民は批判せず、王に従う。民主主義は主権が人民にある。それは根本的な違いです。民主主義をもし唱えるのであったら、日本国憲法がはっきり言っているように、主権は日本国民とともになければならない。いま日本国民と言われている人々全体が臣民と言われた明治憲法下の日本とは違うのです。それをはっきりしておく必要がある。
 民主主義を戦争と結びつける、つまり9条と結びつけるやり方は2通りあります。明治の頃には国権と民権という争いがあったでしょ。民権というのは国民の利益、国権というのは支配者の利益、国家の利益ですね。民権は国権と矛盾していて、国権を強めるために軍事力があり、民権は色々な文化や福祉、人民の権利と結びついている。
 ところが民主主義的であって同時に軍事力と結びつく場合もあるんです。愛国心には2通りあり、革命と結びつく愛国心、帝国主義と結びつく愛国心があると先ほど述べましたが、民主主義にも軍事力、帝国主義と結びつく民主主義があるのです。従って侵略に結びつき、武力の行使に結びつき、戦争に至る民主主義もある。しかし、反対に、そういう国家権力に対し、人民の福祉を主張する民主主義もある。だから、どういう民主主義かということが問題です。平和についてもそう言うことが出来る。両面があるということです。民主主義は自動的に平和ではない。
 それから、独裁主義は必ず戦争に結びつくとは限らない。最近の例で言いますと、ナチは独裁制で戦争をした、ムッソリーニも下手くそに戦争をした。フランコはあらゆる定義に従ってファシストですが、第2次世界大戦には参戦しなかった。独裁制は自動的に戦争に結びつくわけではない。
 民主主義の方はどうかと言うと、民主主義は自動的に平和の方へは行かない。例はいくらでもあります。
 その上で、日本の事態を考えると、9条をやめたら人権は後退します。個人の自由は制限され、報道の自由は大いに制限される。それは初めから分かり切っています。有事法制をそのためにわざわざつくってあるわけですから。
 民主主義はどうなるか。日本国民のために戦争はしない、戦争は国家のためにする。日本国民に要求されるのは勇敢に戦って死ぬことです。人権の最初は生存権でしょ。国家が、意図的に、計画的に国民の生存権を侵すのが戦争です。
 それでどうしたら良かろうかということですが、もし自民党案のように9条第1項は残しても第2項を消せば、強い9条の効果はなくなりますから、武装は強化され、海外派兵、武器輸出が行われ、非核3原則をやめ、核武装する可能性も開けてくる。すでに先制攻撃を口にする政治家も現れています。国際協定や、国連をはじめ平和のために努力している国際組織の原則に反し、まだ誰も言っていないけれど、徴兵の可能性もある。徴兵は日本軍が遠い外国に怒濤のごとく進撃するときではなく、むしろ戦争が泥沼化し、困った状態に陥ったときに出てくるでしょう。9条をやめることに賛成するのであれば、いま申し上げたような一連のことを受け入れなければなりません。
 9条が廃止されれば人権と民主主義はほとんど破壊されます。戦争をするための論理がその破壊を要求するのですが、破壊される側の民主主義、人権を守る力が弱いから破壊される。
 60年はそんなに長い月日ではなかった。まだ十分定着していない民主主義、十分定着していない人権の尊重という考えは破壊されるだろうと思います。それが9条をやめたときに起こることです。

9条を守るのは難しい。
 ベルトルト・ブレヒトが「ガリレイの生涯」という芝居を書きました。ベネツィアの権力者に地動説の正しさを説得できなかったガリレイは、フィレンツェに行く決心をする。ベネツィアはその頃、一応は共和国です。しかしフィレンツェはメディチ家が支配する王国でした。友人が「フィレンツェに行けばもっと状況が悪くなるのでは」と言うと、ガリレイは「もし真理が自分自身を守るために十分に強くなければ、その時は攻撃に転じるしかない」と答えた。自説を防御するのに十分な力がないと思ったら、それを諦めるのではなく、むしろ攻撃に転じるとガリレイが言ったことになっています。
 九条の会としては、もし我々の力が9条を守るために弱すぎるとすれば、我々が持っている力を攻撃に使わなければなりません。
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